求む、熟さぬ果実


 都心から電車を乗り継いで四時間。ようやく辿り着いたJRの駅舎に駅員はおらず、全く整備されていない駅前には、赤錆の目立つバス停留所のポールがぽつねんと独り佇んでいるだけで、タクシー車両の影どころか人影すら見当たらない。付近を見渡せば、目に入ってくるのは澄み渡る青空と新緑芽吹く大地、そして、文明的建造物たる民家がたった数棟のみ。追加情報として、まだ昼の三時半だというのに、先ほど乗って来た電車は本日の終電だという。
 完全なる陸の孤島だ。連続殺人事件が発生する素地は出来上がったと、自信を持って言える。
 しかし、即座に前言を撤回してしまい、相済みませぬが、連続殺人など起きはしない。起きるわけがない。
 なぜならば、これからボク――光明ヒカリが向かうのは、かの有名な名探偵、黒鋼櫻子の別荘だからであり、その別荘でこれから催されるのは、怪しげな秘密の会合でも裏組織との闇取引でもなく、未来の希望に満ち満ちた就職試験なのだからして、何故に殺人事件などが起こり得ようか。事件などに妨害されて、ボクの輝かしい第一歩が閉ざされでもしたら、ボクはもう立ち直れない。せっかく第一次審査に合格したというのに……
 名探偵黒鋼櫻子が、若き探偵達への指導を目的として『未熟な探偵募集』という広告を新聞に載せたのが、二か月前だった。かねてから櫻子様に憧れていたボクは、矢も盾もたまらず、近所の女子高への進学を取りやめて、履歴書の書き方から勉強し始めた。履歴書というのは案外気を遣う代物なのだなぁと、感心したものだ。趣味特技、志望動機、自己PR、その全てを完璧に書き上げ、ボクは万感の思いを込めて、履歴書を郵送ポストへ投かんした。そして、わずか五名の枠を勝ち取るに至った。きっと倍率は一万倍を下らなかったことだろう。
 今や、探偵業は世界のトップトレンドとなっているのだ。探偵として注目を浴びた者は、テレビデビューや映画デビュー、大手企業の名誉理事や大学教授の椅子をも約束される。探偵業で一旗揚げ、別業界に進出しようとする者も少なくない。そんな中で特に世間の耳目を集めているのが、黒鋼櫻子だ。彼女が解決した事件は数知れず、古今東西、国内外で、幅広く活躍している。それでいて、探偵業に関係の無い話――例えば銀幕デビューや自伝出版等――は頑なに断っている。その姿勢が何とも言えずかっこいい。最高位の実力と、気高いプロ意識に支えられた、今世紀が生んだ至高の名探偵。それが、黒鋼櫻子なのだ。
 だからこそ、どんなに舞台が整おうと、クローズドサークル然とした状況になろうと、連続殺人など起き得ない。全世界に名を轟かせる名探偵の御前であるのは元より、彼女の別荘には、ボクを含め未来の名探偵候補が揃い踏みとなる。その場で殺人を犯すような者は、余程の自信家か余程の阿呆だ。例外はいつ何時でもあるとはいえ、九割九分九厘の確率で連続殺人など起きる筈がない。
 さて、考察はこのくらいにして、櫻子様の別荘への道順を確認しよう。この駅までくれば、あとは徒歩で一時間程と聞いている。ボクの月々のお小遣いは雀の涙。タクシーを呼んで向かって貰うだけの経済的余裕は無い。そもそも、タクシーを呼ぶ手段も無い。
 ボクの両親は過保護のきらいがあり、携帯型端末は事件に巻き込まれる契機になると言って、買ってくれない。その主義主張を完全に否定する気はないが、少々考え方が古いのではないだろうか。例えば、今のように遠く離れた地にいる場合、直ぐに連絡が取れた方がいいのではあるまいか。何の連絡手段も持たせずに娘を放逐する方が、よっぽど心配の種になりそうなものである。そもそも、ボクももう中学を卒業するし、子供ではないのだ。櫻子様の事務所に就職したら、初任給――は両親への贈り物に当てるとして、次の月の給料できっと携帯型端末を買おう。きっとだ。
 リュックサックを地面に置いて、側面のジッパーを下ろす。二つ折りにした紙片を取り出し、ついでに、ドリンクホルダーに入れていたペットボトルのオレンジジュースに口をつける。これから沢山歩くのだから、英気を養わねばならない。
「さて、と。まずは右ね」
 地図を読み解き、歩みを進める。地図によると、駅舎を出て右に向かい、一つ目の曲がり角、というより畦道を左に折れ、ひたすらに真っ直ぐ進めばいいようだ。左側に注意をむけつつ、進む。それにしても、何もない。進行方向右側には延々と線路が伸び、左側には見渡す限りの田畑が広がっている。しかし、それも直ぐに様変わりした。地図にあった畦道に進入し、しばらく経つと、左右共に、鬱蒼と生い茂る樹木ばかりと相成った。いつの間にか緩やかな上り坂になっていたので、山へ分け入っているのかもしれない。乗用車が一台ようやく通れるような砂利道をひたすらに上り続け、用意してきたオレンジジュースの残量が心許なくなってきた頃合い、漸う、古ぼけた洋館――櫻子様の別荘がその姿を見せた。

 別荘が見えてから更に十分程歩みを進めて、ようやく目的地に辿り着いたボクは、リュックの中に仕舞っていた紺地のブレザーを着こんだ。既に着用していた、同じく紺地のスカートと薄桃色のシャツに、赤の紐ネクタイを加え、ボクの中学校の学生服だ。就職試験なのだから正装がいいだろうと、山の上の別荘に向かうには不向きと承知の上で着てきた。靴とリュックサックは登山用なのが不似合かとも思ったが、ローファーや学生鞄では危険を伴う。機能性を考慮すべきところは考慮し、礼節として装うべきところは装う、最良の選択をしたと自負している。
 おっと。リュックサックに入れていた上着が少々皺になっているので、手で数分間伸ばして目立たなくする。よし、身だしなみは整った。
 一度、深呼吸。
 大きな扉の脇に、洋館には不似合いの家庭的なチャイムが備え付けてある。恐々と押してみると、やはりよく耳にする呼び出し音が鳴った。古びた洋館然の外観を契機として、再び連続殺人の予兆が脳裏に浮かんでいたが、想定外の庶民的なギミックと音色にひと安心である。
 しばらくして、扉の内側に人の気配がした。
「はい。どなた?」
 落ち着いたトーンの声音。耳朶に心地よく響くアルト。ニュース映像でお話しされているのを、何度か耳にしたことがある。扉を開けて確認するまでもない。間違いなく黒鋼櫻子その人だ。
「あっ、あのっ、ボク、光明ヒカリと申しましゅ。い、いえ、申します! 就職試験を受験しに参りました!」
 うぅ、噛んだ…… いえ、めげてはだめよ、ヒカリ。まだ試験は始まったばかり、というか、まだ始まっていない!
 開錠の音が聞こえて、扉が観音開きに、外向きにあいた。
 玄関口に佇んでいたのは、確かに黒鋼櫻子だった。黒塗りの怜悧な瞳がこちらへと注がれている。ボクの頭上からつま先までを素早く確認し、櫻子様は艶やかな唇に小さな笑みを浮かべた。彼女の濃い怒り眉と尖った顎はどこか男性的で、冷たい印象を人に与えるが、今のように微笑みを浮かべるふっくらとした紅い唇が加わることで、絶妙なバランスが保たれる。総合的に、彼女への印象は、凛々しいとか、小意気とかといったような、プラスのものに集約されていく。
 ボクの心をきゅんきゅんさせる魅力的な微笑を浮かべた櫻子様は、肩甲骨の辺りまで伸びている明るい茶の髪を揺らし、移動する。そして、半身になって、ボクを洋館の中へと促した。
「ようこそ、ヒカリ。貴女が最後よ」
「えっ」
 最後。びりっけつ。ドベ。
 慌てて腕時計を確認すると、集合時間である午後五時の十分前である。よかった。遅刻はしていない。けれど、到着が最後というのはあまり好印象とならないだろう。あう。失敗した。一つ言い訳を許して貰えるなら、始発に乗って来たのだからこれが最速なのだと申し開きしたい。いや、言い訳だなんて、更に印象を悪くしそうなので、やめとこう。
「靴は脱がなくていいわ。さあ、ついてきて」
 洋館だから靴を脱がないのは当然なのかもしれないが、外ばきの靴を脱がずに廊下を歩くというのは、違和感を覚える。櫻子様の元で働くことになれば、外国で活躍する機会もあるだろう。慣れておく必要があるか。そう考えつつも、思わず爪先立ちになってしまうのが情けない。ついつい、掃除が大変そうだなと心配になってしまう。
 玄関口から真っ直ぐに歩みを進め、左右それぞれに三部屋、計六部屋を数えると、突き当りに辿り着いた。櫻子様がその突き当りの扉を空けて、中に入るように促してくださったので、深く一礼してから扉を潜る。
 扉の先はリビングだった。当然、ボクの家のリビングなどよりも広く、四十畳くらいはありそうだった。左側と奥がガラス張りとなっているらしく、緑深き樹々の立ち並んでいる様子がうかがえた。天井は吹き抜けで、やはりガラス張りだ。既に太陽が西に傾き始めているため少々薄暗いが、日中であれば気持ちよく日光浴をして過ごせるだろう。部屋の右側に目を向けると、まず目に付くのは百インチはありそうなテレビジョンだ。その前には、黒檀製のテーブルと黒塗りのソファが鎮座している。
 そして、そのソファに四名の男女が腰を下ろしていた。男女はそれぞれ立ち上がり、居住まいを正した。ボクが来たからというわけでは当然無く、櫻子様がいらしたからだろう。全員、動き易そうな格好をしており、リクルートスーツで武装している者は居ない。おかしい。これでは、ボクがマイノリティではないか。だからということもないと信じたいが、皆一様に好奇の視線をこちらへ向けている。
「そちらが最後の一人でしょうか、黒鋼探偵」
「ええ。では、五分早いけれど試験を開始するわ」
 え? いきなり?
 突然の言葉に、思わず櫻子様を二度見してしまったが、そのように動揺しているのはボクだけのようだった。ぐぬぬ。人生経験の差というやつか。負けない!
 櫻子様は御髪をひと房、右手でつまんで耳にかけ、それから、左手をパーの形で胸の前に構え、そこに右手の人差し指のみを立てて重ねた。
 数字の六を示しているのだろう。六といえば、この場に居る人数だろうか。六人で何かするのかもしれない。人狼ゲームで知恵を競い合うとかか。そうであれば、お昼休みとかに友達と遊んでいたから、ボク、結構得意だ。頑張ろう、うん。
「設問は六つ。一つは頭。しかし、五つの頭は重複している故、お尻。解を統合し、一部は補填なさい。制限時間は一時間五分。では、始め」
 え? それだけ? 人狼ゲーム――は、ボクが勝手に想像していただけなのだから、置いておくとして、今のはどういうことだろう。設問が六つだというのは理解できたが……
 櫻子様の言葉を耳にして頭を抱えたのは、またもやボクだけだった。他四名は素早く移動を開始する。全員、リビングを出ていく。
 負けないと宣誓したそばから負けているではないか。いや、彼らも闇雲に動いているだけかもしれない。そうだといいな。とにかく、ここで悩んでいても仕方がない。全く現状を把握できないのが情けないけれど、まずは彼らを追おう。

 他の人たちは皆、玄関口からリビングへ向かう途中にある六つの部屋を調べていた。なるほど、六と聞いてその結論に至るのは、極めて真っ当かもしれない。ボクだってリビングの広さに圧倒される前は、この六つの部屋を大いに、いや、多少は、少しくらいは気にしていた。と、胸の中でくらいは強がってみる。
 いや。時間が無いのだから、独りで言い訳するのは止めにしよう。ボクも調査開始だ。
 まず、リビング側に近い二つの扉の内、右側に入ろうとした。すると、ちょうど受験者の一人が出てくるところだった。肩口まで金髪を下ろした、眼つきの悪い二十代前半くらいの男性だった。ちょっと怖いので素早く脇にどいて道をあけることにする。
「おっと。すまないな、お嬢ちゃん」
「い、いえ」
 彼は軽く手を挙げて礼を言い、足早に対面の扉へ向かった。そして、寸の間、立ち止まり、扉を開けた。話をする時は表情が和らいだ辺り、見た目が怖そうなだけの普通の人らしい。人を見た目で判断してしまった。反省しなければ。
 いや、反省は後でいい。それよりも、少し気になるところがあった。何故、彼は扉の前で立ち止まったのだろう。扉に何かあるのか?
 これから入ろうとしていた部屋の扉を、改めて眺めてみる。すると『N』と書かれたプレートが掛かっていた。
「何これ?」
 ホテルなどであれば、部屋番号の代わりか何かと判断できるだろう。しかし、ここは櫻子様の別荘であり、個人宅なのだ。なれば、この『N』は、設問に関係があると考えて差し支えあるまい。
 先ほどの男性は、扉を一瞬しか見ていなかった。つまり、プレートに書かれた文字を確認すれば、情報としては十分なのだろう。
 よし、次は部屋の中だ。
 部屋の中は至って簡素なものだった。長方形の部屋の真ん中に足の長い丸テーブルが鎮座し、その台上に一枚の紙片が置かれていた。紙片に書かれているのは、次のような文章だった。
『二月十六日十八時、雑司ヶ谷の居酒屋で相川留吉(六十二)が知人男性を殴り殺害』
 どうしよう。意味がわからない。これが未解決事件のメモ書きであれば、設問となり得るだろう。けれど、この事件の犯人は明らかに相川留吉さん六十二歳だ。
 仕方がない。次の部屋へ向かおう。次は金髪の男性が入っていった対面の部屋にする。部屋のプレートには『E』とあった。中に入ると、内装は先ほどの部屋と全く同じで、紙片に書かれている内容だけが異なっていた。
『五月五日十一時七分、弘前市山田さん宅リビングで家主の山田弥十次さん(五十七)が刺殺され、妻の奈津子(五十二)を殺人の容疑で取り調べる』
 先ほどと同様、犯人がはっきりしている。疑いようもなく山田奈津子さん五十二歳だ。いや、これは実は冤罪事件なのかもしれない。真犯人を探り当てることがこの部屋の設問? しかし、ここに記載されているだけの情報で真犯人を見つけ出すなど、櫻子様でも不可能なのではないだろうか。むむむ。
 ええい、次だ。
 他の四部屋を同様に調査した結果、プレートの文字と紙片の文章は以下の通りだった。
『プレート:O。紙片:黒鋼櫻子の一日は一杯の珈琲から始まる』
『プレート:T。紙片:七月七日十九時七分、雨が降り始めた』
『プレート:Y。紙片:八月三日十時三十二分、清水目荘の大家、清水目明彦さん(七十二)が住人の秋山騎士さん(二十)を訴える。訴訟理由は、壊れたままで交換せず窓ガラスが無いから』
『プレート:H。紙片:一月二十日深夜一時五十三分、長万部町の鹿角朱美さん(二十四)が絞殺される。青塚ルナ(二十三)が、河川に氷を張って渡り鹿角さん宅へ侵入。そうして犯行に及んだ模様』
 頭が痛くなってきた。何だ何だ何なんだ、これは。特に意味が分からないのが、OとTの紙片だ。事件ですらない。櫻子様の朝が一杯の珈琲で始まるというのは、情報としては大変価値がある。しかし、今の状況で何故そのような情報が開示されるのかは、全く分からない。まさかボクへのサーヴィス、なわけはない。そして、Tだ。雨が降りました。それだけだ。だからどうした。
「うーん」
 プレートの文字と紙片の文章を、持参したメモ帳に書き写し、頭をかかえて唸りながら廊下を何度も往復する。考えに詰まった時は動き回るのが一番だ。頭だけで考えていると、思考の迷路で朽ち果ててしまいがちだ。とはいえ、歩き回ったからと言って解決へ至るかというと、必ずしもそうではないのだけれど。
「あ。もしかして、プレートのアルファベットを、紙片の文章中から抜けばいいのかも」
 つい思いついたことを呟いてしまい、慌てて両手で口を塞ぐ。これが正解だとすれば、ライバルにヒントを無闇に与えてしまう結果となる。しかし、幸いなことに誰もボクの周囲に居なかった。
 さて、実践だ。櫻子様のステキな日常情報を開陳してくれている『O』で試してみよう。紙片の文章から『O』を抜くと――
『KURGANESAKURAKNICHINICHIWAIPPAINKHIKARAHAJIMARU』
 うん。訳が分からない。順当に考えれば、これがアナグラムになっているのだろうが、解読可能な文字数とは言い難い。特に今は、一時間五分という制限時間があるのだ。
 腕時計を確認すると、午後五時半ちょうどだった。午後四時五十五分から始まっている筈だから、終了は午後六時となる。あと三十分しかない。まずい。時間が無さすぎる。
 櫻子様ステキライフの紙片は、比較的、文字数が少ない方だ。そうであるにも関わらず、『O』を抜いた英字列は、隠された文章を数分で見出せるレベルとは思えない。これは、先ほどの思いつきは間違っていると見るのが妥当だろう。
「違和感のある文章から攻めていくといいかも」
 っと、また口に出してしまった。注意しなければ。
 さて、最も違和感を覚える文章は、『T』とペアになっている文章だろうか。『雨が降り始めた』から何だというのか。いや、待てよ。『七月七日十九時七分』というところに何か意味があるのではないか。十九時は要するに、午後七時だ。つまり『七月七日七時七分』ということになり、全てが『七』となる。『T』と『七』。字面が似ているが、そこに何かあるのか。
 もしかすると、プレートの文字と関連する何かが、紙片の文章中に隠されているのかもしれない。例えば『O』は――珈琲カップを上からみると『O』のようになりそうだ。『H』は河川に氷が張られて橋のようになった図を意味しているのかもしれない。これは、上手い具合につながるのではあるまいか!
「ヒカリ。首尾はどう?」
「きゃあ!」
 突然名前を呼ばれ、つい叫んでしまった。もう。何なの、一体。
「って、櫻子様!」
「驚かせて悪いわね。皆、もう解けたようなので、貴女がよければ、時間よりも早いけれど切り上げようかと思って」
「え」
 他の皆はもう解けた?
 腕時計を確認すると、午後五時五十分。先ほど時間を確認してから二十分も経ってしまっている。タイムリミットが近い!
「あの、まだ…… けど、もう少しで解けそうです!」
「そう。なら、あと十分よ」
「はい!」
 あと十分か。よし。先ほどの推理で、他の文章も確認しよう。さて、『Y』! ……『Y』? 壊れたガラスの破片が『Y』っぽい、とか。『N』は――横に倒せば『Z』になるから、きっと『Z』で始まる『雑司ヶ谷』だろう。『E』はきっと、『山』なのではないか。『E』の縦棒を下にして横に倒すと『山』だ! よし。これで全て、相当する文字や図が文章中に含まれていると言えそうだ。
 ん。いや、ちょっと待て。まずいまずいまずい。そもそも、だから何なのだ。これまでの仮定が正しかったとして、何が設問に対する解と成り得るのか。アルファベットと結びつくと思われるものを集めてみれば――『七』『珈琲』『橋』『破片』『雑司ヶ谷』『山』。駄目だ駄目だ駄目だ。やはり繋がらない。きっと前提が間違っている。出発点を間違えた。この設問を解く鍵を、ボクはきっと、まだ手にしていない。
 どうすればいい? どうしたらいい?
「ヒカリ? 十八時よ、ヒカリ?」
 どうしようもなかった。
 ああ。終わった。終わってしまった。ボクの就職活動が。ボクのサクセスストーリーが。なんだか体が寒い。頭からだけでなく全身から血の気が引いてしまったかのようだ。もう立っているのも億劫だ。ぐすっ。い、いや、泣かないぞ。泣かないもん!

 くずおれてしまいそうになるのを何とか耐え、よろめく足取りでボクはリビングへと戻った。相当に顔色が悪かったのか、ソファに座らされ、休むように言われた。情けない。せめて、背筋を伸ばして、しっかり視線を上げよう。ソファに埋もれて不貞寝をしてしまいたくなるけれど、探偵は真実に真摯でなければならい。
 櫻子様はボクを数秒間見つめて、緩やかに微笑し、そして、他の人達にも視線を巡らしてからお話を始めた。
「さて。ヒカリ以外の四人は正しい解に辿り着いているので、さっそく正解を発表するわ。今回の設問に対する解答は『リビングの窓にガラスが無いから黒鋼櫻子が十八時に氷を張って雨を凌いだ』よ。作文能力によって文章内容にブレが出るのは避けられないので、趣旨を理解しているようであれば正解としているわ」
 はい?
「あ、あのぉ。もう一度お願いできますか?」
「リビングの窓にガラスが無いから黒鋼櫻子が十八時に氷を張って雨を凌いだ」
 いやいや、何を仰っているのか。
「もう一度……」
「断るわ。そもそも、大事なのは解答の文章自体ではなく、文章が出来上がる過程よ」
 どのような過程を経て、櫻子様が氷を張って雨を凌ぐことになるというのか。
「一つは頭。しかし、五つの頭は重複している故、お尻。ヒカリ、この意味するところは分かる?」
「それは、櫻子様が初めに仰っていた……」
 すっかり忘れていた。六つの設問があるという言葉にだけ注目してしまっていた。一つは頭。五つはお尻。頭が重複している。五と一。何か覚えが――あ。
「5W1H?」
「そう。中学生の英語の授業でもやった筈よ。五つの頭は重複している故、お尻。これは、WHEN(いつ)、WHERE(どこ)、WHO(誰)、WHAT(何)、WHY(何故)の五つを示している。そして、一つは頭とは、HOW(どのようにして)のことを指していたの。わざわざ詳らかに解説する必要もないかとは思うけれど、五つの頭文字が『W』なのでお尻――末尾の『N』『E』『O』『T』『Y』を用い、『HOW』だけは頭文字の『H』を用いる。そういった宣言をわたくしはしていたのよ。あとは簡単でしょう?」
 櫻子様の問いかけに、こくりと首肯する。
 たった一つの『5W1H』というファクターさえ理解できれば、何も難しいことはない。各部屋のプレートの文字は、当然ながら、『5W1H』――いつどこで誰が何を何故したか、を現している。故に、各部屋のプレートに相当する情報を、各文章から抜き出し、繋げればよいのだ。
 Nの部屋からは『WHEN(いつ)』、つまり、『十八時』を。
 Eの部屋からは『WHERE(どこ)』、つまり、『リビング』を。
 Oの部屋からは『WHO(誰)』、つまり、『黒鋼櫻子』を。
 Tの部屋からは『WHAT(何)』、つまり、『雨』を。
 Yの部屋からは『WHY(何故)』、つまり、『窓ガラスが無いから』を。
 Hの部屋からは『HOW(どのようにして)』、つまり、『氷を張って』を。
 抽出された情報の欠片を繋ぎ合わせ、一部『行為』を補填すると、解答、つまり、『リビングの窓にガラスが無いから黒鋼櫻子が十八時に氷を張って雨を凌いだ』となる。
 全く意味が分からない文章だ。氷を張る手間を考えれば、ガラスを用意した方がいいに決まっている。けれど、その意味が分からない混沌の文章へと至る、秩序とでも呼ぶべき痛快な過程こそは、まさしく論理の成果だ。ボクら探偵が至るべきカタルシスに相違ない。
 いや違う。ボクら探偵ではない。彼ら探偵と言わねばならない。ボクはこの解に至れなかった。ゆえに、ボクは櫻子様の助手とはなれず、探偵にもなる資格がない。
 それこそが、この試験の結論であり、論理が至る成果だ。
「えぐっ。ふ、ふえぇ……」
「お、おい。待て待て。一人だけ間違えたからって泣くんじゃねぇよ。ガキじゃねぇんだ――いや、そうか、ガキなのか」
「落ち着いて。大丈夫よ。まだ若いんだからチャンスはいくらでもあるわ。ね?」
「そ、そうだぞ。黒鋼探偵に師事できずとも、探偵は他に沢山おることだし」
「良い子、良い子」
 他の受験者全員に慰められながらも、ボクは涙が流れるのを止められなかった。泣いて泣いて泣いて、疲れていつの間にか眠って、気付くと朝になっていた。せっかく櫻子様の別荘に泊まることが出来たのに、早々に眠ってしまったので記憶はほとんどない。とても残念だと、そんな風に考えられるくらいの余裕は戻っていた。けど、それだけだ。新たなチャンスが与えられることは、もうない。

 合格通知。その書類を胸に抱いて、ボクは黒鋼探偵事務所に駆け込んだ。書類が届いたのは今日の午前中だった。郵送されてきたのをママ、いや、母が受け取ったのだが、ボクが眠っていたのでリビングの安っぽいテーブルの上に放置していたのだ。それに気づいたのが一時間前。それから電車を乗り継いで黒鋼探偵事務所へとたどり着き、現在に至る。
「慌ててどうしたの、ヒカリ」
 耳朶に優しく響く、アルトの落ち着いた声音。ボクはぜえぜえと肩で息をしながらも、安らかな気持ちになって心がトロトロに解けていった。
「あ、あの、コレ……」
「ああ。届いたのね。それに書かれている通りよ。四月の一日からいらっしゃい」
 何でもないことのように、さも当然とでも言うように、櫻子様は仰った。しかし、ボクには意味がわからない。先日の試験以上に、理解が出来ない。ボクは独りだけ問題に正解できず、当然ながら不合格の筈ではないか。
 いや、待てよ。そうか。五人全員が合格したのか。ボクは所謂、補欠合格のようなものなのかもしれない。
「あのぉ。他の方は?」
「他? 居ないわよ、そんなの。わたくしはそうそう何人も面倒を見る気はないの」
 どうやら違うらしい。ボクだけであるらしい。嬉しいけれど、とても嬉しいけれど、意味はますます分からない。何が起きているのだろう。夢なのだろうか。これは、夏の夜の夢ならぬ、春の世の夢なのだろうか。妖精パックのいたずらなのだろうか。
 よっぽど顔に出ていたのか、櫻子様が呆れたように黒塗りの瞳を細め、小さく息をついた。
「相変わらず、理解が遅いようね。そして、だからこそ、貴女でなければいけないのよ、ヒカリ」
「どうして、ですか?」
 もう論理の一端は、ボクの手にも握らされているのだろう。櫻子様の物言いからは、そうであることが窺える。しかし、分からない。どうしても分からない。絶対に、ボクが櫻子様の助手になるための論理は、存在しない――筈だ。なぜボクはここに居る。なぜボクは選ばれる。なぜ?
「これをご覧なさい。未熟な探偵さん」
 櫻子様が古新聞をボクに渡した。
 見覚えがある。当然だ。ボクはそれを見て、高校進学を放棄したのだ。夢への第一歩を踏み出すに至ったのだ。
 それは、黒鋼探偵事務所の求人広告だった。
 ああ、そうか。それが論理か。
「もう分かったでしょう? 貴女しか居なかったのよ、ヒカリ。ああ、そうそう。出勤時はこの間と同じ格好をしていらっしゃいね。わたくし、貴女のような可愛い子の制服姿って好きよ。ねえ、ヒカリ。いいでしょう?」



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