第5話『学びを修める者』 01




 秋というよりは冬と呼ぶべき時季のことである。東の空がようやく白み始めた時間帯にもかかわらず、我ら八沢高校二年生は元気に校庭へ集っていた。早朝ともなれば気温はめっぽう低く、降雪はまだにせよ、霜が降りるのは避けられない。土の地面を踏むとパリパリと音がするのもご愛敬といったところか。眠気と寒気に負けてうなだれている者もいるが、多くは興奮冷めやらずにおしゃべりに興じている。ちなみに、俺こと富安泰司は前者である。眠くて寒くて、その上、とある面倒くさい頼まれごとをしているというのに、そうそうテンションなど上がるはずもない。
 コクコク!
 誰よりも気合十分な輩が目に入った。そいつは同じ班になったクラスの女子とおしゃべりしている……わけではない。相槌をしている。いや、それも正確ではない。あいつ自身はおしゃべりをしているつもりだろう。けれど、あいつの言葉が相手に通じている可能性は限りなく低い。それでも、この頃はクラスの奴らもあいつの扱い方に慣れてきているからして、言葉を解せずとも意思疎通は何となく出来ているのではあるまいか。特に、あいつの入った班の女子は比較的気配りが出来る方である。恐らく、問題はあるまい。
「眠そうだな、泰司」
「太郎か。5時半だぞ。眠くないわけないだろう」
 朝の5時半に眠くないなぞ、それはもはや人間ではない。
「これから楽しい楽しい修学旅行だっつーのに、昨日早めに寝とけよ。バスとか新幹線で騒げないじゃん」
「公共の乗り物で騒ぐのはマナー違反だろ」
 そう言いながらあくびをかみ殺す。
 何も俺も、普段からそんなに意識高く生きているわけではない。公共機関でも人並みに騒ぐし、場合によっては怒られる。そんな普通の高校生である。しかし、今朝に至ってはそんな気分になどなれはしない。なれるわけはない。例によって例の如く、鵬塚永治という名のシスコン総理大臣がうっとうしい電話を朝の4時にかけてきたからだ。そして、やはり例によって例の如く、彼の妹に関する頼みごとをされた。修学旅行で4日も家を空けるためか、たいそう心配しておいでだった。どうせこっそり監視したり、場合によっては尾行したりするくせに、あの糞兄貴が。その間、当の妹は心安らかに朝寝に興じていたようだ。ふざけんな。
 それはともかく、そう、修学旅行だ。俺だって脳内で悪態ばかりついていたくはない。純粋に楽しみたいさ。可能ならばこれを機に彼女など作ってきゃっきゃうふふしたい。誰だって夢を見るのは自由だ。しかし、恐らく、そうは問屋が卸さないのである。
「お前らー。静かにしろー。これから校長のいい感じの挨拶あっからー。とりあえずおとなしくしとけー」
 キムティーこと、俺らの担任の木村熊夫が、俺同様眠気を押し殺した様子でけだるげに言った。
 そのやる気のなさ、何か安心するよ、キムティー。
「えー、あー、皆さん。おはようございます」
 朝の挨拶から始まった校長の話は、正直、全く聞いていなかった。眠くて寒いのは元より、鵬塚兄からされた頼まれごとを全うしようと神経を集中していたためでもある。
 ふむ。先ほどまではやや興奮気味だったが、今は小康状態になったようだ。鵬塚兄の妹、天下の星選者たる鵬塚真依も、さすがに退屈な校長の話でテンションを上げる程に変わり者ではなかったか。ひとまずは安心できそうだ。早々に鵬塚兄から託されたアイテムを使わなきゃならんかと、ひやひやしていたからな。正直、あれを使うのはなるべく避けたい。使ったら最後、俺は確実に浮く。
「よーし。んじゃー校門前のバスに乗れー。ほれ、委員長。案内、案内」
「キムティー、仕事しなよ。まあ、いいけど。じゃあ、みんな。校門前まで移動して」
 コクコク!!
 クラスの奴らがのろのろと移動する中、鵬塚の奴だけが全速力で駆け出した。いつもの勢いの二十割増しくらいだ。
 駄目だこりゃ。仕方がない。
 リュックの脇のファスナーを空けて、鵬塚兄から託されたプレーヤーを取り出す。ゲームは禁止されたがプレーヤーは慣例として見逃されると聞いているため、特に規則違反ではない。よって、堂々と掲げ、スイッチに手をかける。南無三!
『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……』
 大音量で女性の声が流れる。それだけならばまだよいが、内容が所謂、般若心経である。周囲の奴らはこぞってこちらを見た。
 見んな。マジ見んな。俺だってこんなもん流したくはねえ。
「お、おい。泰司。何だ、それ」
「ドン引きしたい気持ちはよく分かる。分かるがな、太郎。これは仕方がないんだ」
 俺は今、苦虫をかみつぶしたような顔をしていることだろう。
 これで俺のきゃっきゃうふふ修学旅行ライフは潰えた。間違いなく。しかし、これで鵬塚のテンションは……
 鵬塚を確認すると、しゃがみこんで丸くなっている。無事テンションが下がりきったようだ。
 ゆっくりとした足取りで彼女に近づいていく。全員が全員俺の進路から逸れ、遠巻きにしてくれやがる。泣くぞ、俺は。
「おい。鵬塚。修学旅行が楽しみな気持ちはよく分かるがな。テンションの上げ過ぎに注意しろって永治さんに言われただろ」
 コクコク……
 力なく頷く星選者殿。いっそ涙目にさえなっていそうだ。
 色々と説明は省くが、こいつのテンションが上がりすぎると、世界のどこかで自然災害が発生するらしい。星選者というのは、そういう特別な存在だというのだ。
「あんまり興奮してるようなら、今みたいにこれ、再生するからな」
「……どい……!」
「俺は酷くない。酷いのは永治さんだ」
 きっちり責任転嫁をしておく。いや、転嫁ではない。間違いなく責任は奴にある。
 しかし、実際のところ般若心経でテンション下げ過ぎじゃねえか、こいつ。宗教に関わらず生きている身としては、気持ちがよくないという点には同意するが、上がりきっていたテンションをここまで下げきる程のもんじゃないだろう。相変わらず、よく分からんやつだ。
「……み……すく……らい……!」
「はいはい」
 嫌いでも何でもいいから、気を付けてくれ。俺はこれ以上、宗教かぶれ扱いされたくない。マジで。



PREV  TOP  NEXT